昭和四十九年 二月二十二日 古屋家霊祭の御挨拶
何でも同じですけれども、値打ちのあるものでなからなかったり、信心もやはり値打ちのある信心でなからなきゃならない。本当に値打ちのない信心をする人がどれぐらいあるか判らない。一生かかりで信心さして頂きながら、「あの世にも持って行け、この世にも残しておける」と言う程しのみ教えを頂き、そういうおかげの頂けれる信心に縁を頂きながら、ただ、おかげ頂き所に教会をしておったり、信心をしておったりしたんでは、こげな値打ちのないことはない。つまらない話です。
霊様でも値打ちのあるね、値打ちと言うですか、同じ商品でも、それは素晴らしいものであっても、それに商品価値というものがなからなければいけない。価値というものは、例えば、お酒ならお酒でも、レッテルがあるかないかだけでもう価値が決まる。あれでのっぺらぼうで、例えばレッテルがなかったとするなら、もうそれは中がどんなに素晴らしい、なら黒松白鹿といったような最高の名酒であっても、何じゃ分からん。やはり価値を、いわゆる商品にも商品の価値を付けなければならないように、価値・値打ち。信心も値打ちのあるものでなからにゃいけない。霊様ももう三十年ともなると、それなりにやっぱし良いものを段々身につけてお出でられておるですね。
今日私、お礼申させてもらいよったら、あれは、「うど」と言うんですか。野菜にありましょう。この辺では「しか」と言うです。今頃から出来ますね、春先に。あれは栽培して作ってるのがある。それをね、籾糠をこう一杯かけかけしてね、こんなにきれいなうどが出来て、上にちょっと芽が出てるけど、赤くなっておらないわけです。ああこれには後に、ちょっと泥なりね、泥と籾糠とを混ぜたようなものを、上に押えに掛けて、そしてすると、これは青い芽が出るなという感じのとこを頂くんです。
やっぱり三十年、そりゃ籾殻的なものであっても、掛けていっておりますから、きれいに白いとこ出来とる。けれども、これだけでは言うなら野菜と一緒で、商品価値がないです。これやっぱ、青い生き生きとした葉が出て、葉は食べられんにしても、その葉があって初めて商品価値があるんだと。そういうふうに感じたんです。私は。そこでなら、何のためにその「うど」ですね。ここら辺りでは「しか」というが、しかの野菜を持ってお知らせ下さったかということを思うてみたんですけれども。例えば三十年の間に、しかが出来とるのですから、これをやっぱり、馬鹿にしなければいけないという感じでした。
だから例えば、これから古屋さんの信心がいよいよ、例えば福岡の信心の芯とも言われる、「馬鹿と阿呆で道を開け」とおっしゃる。こういうところに本気で精進なさらなければいけません。これはもう自分のため、根のため、家のため、霊のためです。もうどうでも福岡の方達はここんところが一番欠けておるようですね。福岡関係の方達は、利口もんが多すぎる。利口面を言い過ぎる。賢いです。だから信心のもう賢いぐらいおかげの受けられんことはないです。その豊かさがないです。だからね、本当に例えば今日の霊様の三十年がかりで出来ておるものを、いよいよ価値付けるためにはね、やはりご自身としても、霊様としてもそうでしょうけれども、やはり、遺族の者がこんところの信心、それこそ身のため、霊のために、本気でその辺の所をね、何かそんな感じです。これに馬が付いたら、しかですからね。馬鹿になるでしょう。そんな感じでした。
同時に今日の霊様の場合、助かられるということに非常に生き生きとしておられるですね。まあ例えて言うならば、城壁のようなこんな下を向いたら目が舞うような所を、途中まで登っておられるんです。これ誰かは分からんですよ。私御心眼頂くんですから、ところが、上からはこんな大きな蔓がこうたくさん下がってきているんです。それにしがみついて、石垣に足を持って行ってですね。そして助かられるというのでなくて、本当の信心が出来るということですよ。
例えば、「真の信心真の信心てとても難しい」と言やあそれまでのこと。けれども、真の信心はこれを登った上にあるわけです。下から見たらとても目が舞うごたるし、とてもあんなとこへ登れんてごたるけれど、本気で登ってみろうということになるとです。ちゃんと手がかりの所があり、足掛かりの所があってね、上から蔓のようなものが下りてきておって、そりゃあもう楽しゅう登れる。そういう感じの所を頂くですね。
私、今日の霊の場合なんか、そういう意味で、助かるとか助からんとか言うことじゃなくてから、本当の良い信心の座に座ろうという意欲を一杯持っておられるような感じがしますよ。途中ですけどもね。ですから、やはり生き生きとしたね。なら、遺族の者もそんなら、馬鹿と阿呆になることに本気でそこに信心を燃やすということになってくると、本当に「馬鹿と阿呆で道を開け」と先代はね言われたような、道が開けれる、本当の信心をそこに見ながら、ぐずぐずしとったんではね、とにかくやはり意欲を燃やさなきゃならない、そんな感じでした。
今日は古屋さんのお発ち日に併せてというよりも、この霊様に併せて、それぞれの御挨拶もさせて頂きましたけれども、やはり同じ意味のことが言えるんじゃないかと思うです。私が感じたこと。私が頂いたこと。それを理解して行くと、ただ今申したようなことになるんです。一つ本気でね、「そんな訳には」と言わずに本気で登る気になるとちゃんと登らして下さる。蔓ということは、私は、桂先生の桂と言うふうに頂くべきだと思うですね。それにすがって、しかもそこには、手の掛かるところがある、足の掛かるところが必ずある。ようもこういういところへ登ったもんだと、登ってしもうたら思うくらいですけれども、大変問題は、本気で登ろうという気になれば登れれる道がちゃんと付いてくるというような感じがしましたね。不行き届きなことでした。
今日は三時半まで掛かったんです。井上さん所の、面白い、帰幽祭、それから五十日祭、そして合祀祭から五十日祭、三つを併せたようなね、それはもう心の髄使わなならんこと。もうこげな難しいお祭は私初めて仕えました。そしたら三時半までね。ですから私、これも私のまあ言うならば、一つのまあ方法かも知れませんけれども、何時の場合でもやはり斬新な、はあさっきから霊祭したけん、今度の霊祭に何かこう仕えとるというようなことがあっちゃならないと思いますからね。やっぱり演出を致します。
この、先程は、副祭主を若先生がしました。賛者は末永さんがしました。後取を上野先生がしました。これを全部替えましてね、何とはなしに新しいそんな気持ち。信心にはやっぱそういうね、フレッシュなというかね、生き生きとしたさらなものがなからにゃいかんです。やはりこうやって掛けて行く。だから、新しいところが伸びて行くんですよね。
どうぞ「鹿」に対する、「馬」と言うですかね。馬鹿ということですから、一つ本気で「馬鹿と阿呆で道を開け」という、本当にその道をそれで開かしてもらわなければ、まあつまらないことです。例えば「一生、金光様の信心を頂いとりました」と言うても価値のない信心じゃつまらん。やはり価値ある信心を頂きたいですね。
どうぞ。